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評価:
徳間書店
(2004-03-20)
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著者はフィリップ・マグロー氏、翻訳は古賀弥生氏です。
残念ながらこの本、既に日本では絶版になっているのか、Amazonでは新刊では手に入りません。
Amazonマーケットプレイスその他の古本屋で購入されるか、図書館を探されることをおすすめいたします。
シングルに戻って1年あまり。
特にステディと呼べる人もいないまま、気がつけば今年9月には「四十路(よそじ;40歳)」を迎えます。
が、今現在のところは、「まあ....だからって急いで相手みつけなきゃいけないってこたぁないし....」と、大した緊迫感もなく(!?)日々を過ごしております。
どうして、今現在はそういう心境にあるのかと。
「相手そのものをしっかり愛せるようになりたい。そのためにも、
まずは自分で自分をきちんと愛せて、面倒をみれるようになりたい」
そのように思っているからです。
最近、これまでの自分の恋愛遍歴というか「惚れ遍歴」を思い返したところ、あるパターンが頻出してくることに気付いたのです。それは私が、
相手との間の「状況」に惚れていたのであって、
相手そのものの魅力に惚れていたわけではない
ことが多かった、ということです。
別の言い方をすれば、「そこに、ラブ・アフェアが生まれる状況があったから」とでもなりましょうか。
相手の性格や容姿は一の次二の次。
相手を「救える」とか「勇気づける」とか「唯一の味方になれる」というか。
自分が相手をリードできるような状況を、労せずして手に入れようとしていました。
そして自分の存在感を手に入れ、増幅させようとしていました。
めでたく「お熱い仲」になれたとして。
相手が「私の許容範囲内で」頼ってくれるうちはそれに依存できます。
が、相手が力を得てしまったり、逆にさらに頼ってきたりして、「許容範囲」を超えてしまうと、そこで関係を終わらせようとしていました。スイッチをバシッと切るがごとくに。
で、数少ない「相手の魅力に惚れた」場合にも問題がなかったわけではなくてですね。
相手の魅力を「自分の(欠けた)一部、自分の所有物」的に扱ってはいなかったかと。
今にしてみればそんな気がするのです。
その人と一緒にいると、自分が充たされた感覚がある。
その人と語り合うと、自分の可能性がどんどん拓けてくるような気がする。
それ自体は悪いことではない(恋愛に限らず、人間同士の出会いが織りなす、好ましい意味での「ミラクル」ですから)のですが、「それがないと、ダメになる」....依存というか中毒というか....ところまでいってしまうと、そりゃあマズいでしょうよ。
そのとき自分は、相手のことを観ていたのではないのです。
ハイになる自分自身を「最高!」と、文字通り「自惚れて」いたのです。
惚れるに値する中身が貧しいまんまに....。
そこまで判ったとき。