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評価:
ジョセフ・L. バダラッコ,高木 晴夫,渡辺 有貴
¥ 2,310
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「上司たるもの、(常に冷静沈着に見えるおまえのようではなく)
バカになれるようじゃないと、下の者はついてこないよ」
先日の会社の呑み会で、本社からゲスト参加した某取締役の一言です。
確かにおっしゃることに一理はあり、その場では「そうなんですよねぇ」と同意したのです。
同意なのは確かなのですが、それと同時に思ったことがあります。
「バカをやらないと、下はついてこないのだろうか?」
「常に落ち着いた状態でいることは、そんなによろしくないのだろうか?」
こういう問いを内心密かに立てること自体、上からはかわいがられず、下からは近寄られない要素なのかもしれませんが。
すべての面においてガードが堅い人が、上からにしろ下からにしろ「近寄りがたい」感じを与えるのは確かです。加えて、ガードの内側にあるもの(感情や欲求)を少しでも表に出そうものなら、そうでなくても近寄りがたいのに、さらに周囲をどん引きさせることになってしまいます。
かつての自分がそうでした。「マジメでいい人」と表面上はとらえられるので、その範囲に収まっているうちはそこそこ周囲もつきあってくれます。が、その枠を越えようとしたときに、向こうからシャッターを下ろされるという、そんな経験を何度もしてきました。
で、現在の自分はどうなのかと。
表面上、落ち着いて見えるというのは、多分変わらないと思います、第一印象的には。
しかしそれは、周囲から自分をプロテクトするためにこしらえている姿ではなく、「いや、入り口は常にこんなもんですよ」てなもので、特に身構えてそうしているわけではありません。
バカをやらないのも、取り立てて必要だとは思わないから「やらない」だけで、むしろそれを隠す壁は昔よりは低くなっていると思っています。
で、冒頭の問いについて、もう少し考えてみました。
どうして、バカを「やらないと」人はついてこないのか。
# ここでいう「バカ」というのは、人を笑わせるってのもありますが、
# いわゆる「天然」なるキャラも含むと思ってください。
隙のなさ、完璧さを装われると、ついていきたい気持ちは薄れます。
バカを「やる」か、バカを「隠さないでいる」か。
どちらかの要素があれば、その人との間の風通しがよくなります。
ピッタリとくっつきすぎて窒息しそうだったのが、隙間ができて息ができるようになったと言えばいいでしょうか。
で、バカを「(少しでも意図して)やる」ことでその隙間を作っている人からすれば、バカを「(特に意図も持たず意気込みもせず)隠さないでいる」人というのは、ある種の脅威なのです。
「自分がこれだけ頑張ってバカをやっているのに、あいつは」と。
冒頭にご紹介した某取締役がそのタイプだとは言いませんが、少なくとも、自分が部下をとりまとめてきたやりかた(あり方、かな)とは真逆の人間が目の前にいて、何となく場に馴染んでしまっているのが意外に思えたのかもしれません。
それに、人にはそれぞれ、持って生まれた「ふさわしいやり方(あり方)」があります。
道化で人の気を引くのが好きな人もいれば、そうやって盛り上がる場を穏やかに見つめて安心感を与える人間だっているのです。
リーダーシップもしかり、メンバーシップ(フォロアーシップ)もまたしかり。
これまでのように「リーダーとはこんなもの」「メンバーならばこうあるべし」と鋳型に嵌めて済ませてきた段階から一歩進んで、それぞれが持って生まれて育ててきたあり方を「まずはそれでよし」と受け入れあって、その先はお互いの相互作用を認めあう方が機能するように思うのです。
リーダーシップの「とり方」は、そのグループによって変わるでしょう。
しかし変わらないのは「敷居の低い」ことではないでしょうか。
行動レベルに落とすならば、「声の掛けやすい」「相談しやすい」「マズいことも言いやすい」といったところです。
ただし、決断はしっかりと行う。その決断は、敷居の低さゆえに自ずと流れてくる情報に基づいているので、理屈的にも感情的にも納得度は高い。
世間で流行し始めている「サーバント・リーダーシップ」。
その土台として必要なのは、まさにこの「敷居の低さゆえに生み出せる、情報と感情の盛んな交流」ではないでしょうか。
バカをやった方が敷居を下げられる相手であればそうすればいいし、穏やかに落ち着いて語りかける方が相手に深く入りやすいのであればそうする。
そんな使い分けを自由自在にやってのけられる人に、私はなりたいと思っています。