(小学校1年生)
「
聞く態度に欠けている。無駄口が多く学習時もよくしゃべる。またちょっとしたことにもすぐ泣く」
「わかっていてもそれを頭の中でまとめて表現することができにくい」
「
いつも情緒不安定」
(小学校2年生)
「学習態度が少し悪い。
自分勝手なことをしないで、辛抱強く学習しよう」
「
深く考えようとする態度が見られなくて残念」
「もう少し
負けん気を出してやってほしかった」
(小学校3年生)
「発言も筋道がよく通り、明快。ただ、
発表の都度友達に反感を持たれている傾向が多く見受けられる」
「話し合いの時間、
問題に真っ正面から取り組むことがなく、客観視する傾向がある。自分のこととして、人の気持ちを考えたりして、幅広い心になってほしい」
(小学校4年生)
「泣かされることは少なくなったが、
今度は自分が弱い女の子に文句を言ったりするということがあった」
(小学校5年生)
「
感情の起伏が大きいために、班活動で支障を来すことがある」
(小学校6年生)
「よい考えを持っているのだから、
遠慮せずに意見をたたかわせるようになってほしい」
(中学1年生)
「発想がとても柔軟なので、大切にしていってほしい」
(中学2年生)
「周囲の反感を買うことを避けてか、遠慮がちになったが、
正しいことは正しいと考える精神を強く持ってほしい」
「
自分の中の欠点を自覚し、言動に示していける強さを養ってほしい」
(中学3年生)
「
強気で生きていけると、世界が変わると思う」
以上は、実家に保管してあった通信簿に書かれていた、当時の先生方の所見より抜粋したものです。
うわぁ....この文章だけを見れば相当な「問題児」ですぞ。
お勉強ができたのだけが救いというべきでしょうか。
「アタマはそれなりにキレるけど、空気の読めない、気の弱い子」
いじめられたり、味方になってくれたりする子が少なかったのも、当然のことでしょう。
通信簿に改めて目を通したのは何年ぶりでしょうか。
もしかしたら、その学年が終わったら、一顧だにせずいたのかもしれません。
他にも判ったことがあります。
◎私はやっぱり「インディゴ・チルドレン」の特徴を備えているようだ
現在の教育現場においては「
ADHD(注意欠陥・多動性障害)」と分類されかねない特徴があります。
特に小学校低学年の、先生方のフィードバックにご注目ください。現時点の私自身を省みても当てはまる部分がありますが、先生方は見事にその特徴を(社会化の観点からは、ネガティブな意味合いで)掴んでいます。
◎「最悪の時期」のフィードバックは、そんなに否定的ものではなかった
私にとっての「人生最悪の時期」は、小学校3年生の頃でした。
当時の担任との相性が合わなかったのか、誰も自分をサポートしてくれる存在がないと思いこんでいました。
しかしその時期の所見を見ると、そんなに辛辣なことは書いていないのです。辛辣さという点では、むしろベテランの先生の方がきつい表現を遠慮なく使っています(その内容は的確ではありますが....)。
さらには、他者との関係性をよくするためのフィードバックがこの頃にはなされています。NLP的にいえば「物事から終始ディソシエイトしており、他者への共感(アソシエイト)度合いは低い」ってことになりましょうか。
先述の「インディゴ」の特徴とは相容れませんが、自分の本質を押し込めなければ社会に適応できないと決めた可能性はあります。
◎通信簿の「所見」として伝えられたフィードバックを、直接または両親から伝えられていなかった
あるいは、彼らは伝えたのだけれど、「当時の私が受け入れられ、納得できるような伝え方」はできていなかったのかもしれません。
今の私が既に過去のものとして葬り去ってしまった「事実」が、ここにあります。
そして、今の私は、当時の先生方のフィードバックを「痛いよなぁ」と思いつつ受け取りながら、それをうまく生かしていく術を知っています。
そう。「リインプリント」です。
先生方のフィードバックを「さらに必要なリソース」として取り込み、過去の未熟だった自分を成長させて癒した上で、現在・未来に生かしていくワークです。
もしもあのときあの頃、
先生方のフィードバックが私自身に伝わって、さらに自分自身を改善していく姿勢を持ち続けられたとしたら。
さらに、すぐには改善できないとしても、そんな私を信じて支え続けてくれる存在を常に感じていられたとしたら。
当時の私はどうなっていたでしょう。
その後の私はどうなっていくでしょう。
これは、単なる「たられば」ではありません。
私が長年背負い続けてきた「一つの視点だけから作り上げた歴史」を書き換える試みです。
そしてそれにより、私の現在と未来を、より健全なものに変えていく試みです。
明日、東京に戻ります。
私の新しい一年が、本格的に始まります。